「彌堅」の額について

 宮本弘毅
 

(平成14年2月6日脱稿)
 

   私は祖父(=中宮本第12代周説)に、「彌堅」を「いよいよかたし」と読むと教わりました。「彌」=「弥」である事は間違いないと思います。私は子供の頃より後述するある理由により、漢和辞典を手にする度に「彌(=弥)堅」なる2字熟語を調べましたが、この種の2字熟語に遭遇した事はありませんでした。
   つい最近 Internet で検索した処、
   http://www.okinawa-   insho.co.jp/sub003.htm
に「彌堅」がありました。ハンコ屋さんの Home Page で「読み方不明な名前」の欄に載っていました。プロも読めない事を知り自分なりに納得しました。同時に子供の命名にこの字を使う親が現にいる事を知り、読み方を教えて頂きたくなりました。実は60年前私の親が私に命名する際、「彌堅」が第一の候補でありましたが、「名前」としての「カナフリ」に窮して断念したと聞いていたからです。

   出展は「論語」だ(「久喜市史 資料編V近世」以後「市史」と略)そうですが、新字鑑(塩谷温編 弘道館)によりますと、
     【彌】:「弥」は俗字 「イヨイヨ」とは「ますます」とあり、他にこの字は「アマ ネシ」「ワタル」「ヲハル」
        「トドム」「ヤム」等と読み、「日数をかさねる」「おおう(=覆)」「みつ(=満)」「つづりあわせる」
                「補合する」「とおし(=遠)」「ひさし(=久)」等の意味がある様です。 

     【堅】:「カタシ」「カタク」等と読み、「破れぬ」「動かぬ」「強い」「かたい所」「し っかりと」「よろい」等                           の意味がある様です。

  文化5年7月 下野の書家 平陵松芳の筆による(=「市史」)と云われます。文化5年とは西暦1808年で、世界的にはナポレオンが皇帝に即位し(1804年)、日本では徳川家斉の時代で、喜多川歌麿が持て囃され、秋成(雨月物語)・一九(東海道膝栗毛)・三馬(浮世風呂)・馬琴(椿説弓張月)等の華が開いた時期で した。
   書家個人についてはよく解りませんが、下野ノ国とは現在の栃木県であり、「中宮本の沿革」にも記しましたが久喜地方は宇都宮藩と縁があった様です。

 額の裏面には
        宮本周悦 佐藤藤兵衛 宮本周説 井惟親 藤原平兵衛 斉藤平左衛門  榎本善兵衛 榎喬平 
の8名の氏名が記されています。
 中宮本の7代目は享年58歳で文化3年に逝去してますので、この宮本周説は若干24歳の8代目と思われます。宮本周悦は「上(=カミ)宮本家」であり、この方の末裔である宮本裕氏は現在「くき眼科」の院長先生です。榎本善兵衛の同名の末裔氏が久喜市の初代の市長であり、いわゆる「榎善(=エノゼン)家」です。他の5氏は残念ながら解りません。

   この額は私が子供の頃、中宮本病院(昭和35年に「愛生会病院」に改称)の正面玄関の天井高くに掲げてありました。その建物は12代周説が大正4年(=1915年)に建築し、長らく当家のシンボルでもありまし た。
   しかしその昔には、「彌堅」の額は「遷善館(=センゼンカン)」の講堂にあった(=「市史」) 様で、平成8年4月に市教育委員会より、市の有形文化財に指定されました。
   私は久喜町立久喜小学校(=現在の市立久喜小学校)を昭和29年に卒業しましたが、校歌の歌詞の中に「遷善館」なる語句が出てくるのを記憶してます。


   平成11年度 久喜市民大学 大学院研究論文集「郷土の歴史ゼミナール」(以後「ゼミナール」と略)によると、「遷善館」は享和3年(1803年)に設立された久喜村民の為の教育機関で、20数年間にわたり存続し、現在の愛生会病院の近くにあった様です。
 当時の教育機関としては、官学(=幕府の学問所)、藩校、郷学、寺子屋、私塾(=寺子屋より教育レベル高い学問所)があり、「遷善館」は郷学の範疇に入ります。
   寺子屋・私塾と異なり郷学は幕府や藩の保護や管理下にあり、現在の「国・公立」の様なモノでした。
   「遷善館」には学徒が200名位いた(=「ゼミナール」)と云われますので、相当な規模であったと推定されます。「講堂」とは時代劇に出て来る町道場の様な大教室で、そこに数10脚の「座り机」又は「見台」を並べての学習光景が頭に浮かびます。
   「遷善館」の設立5周年を期して、前記8氏が講堂に「彌堅」の額を寄贈したと私は勝手に推量してます。


   非常に立派な額ですが、その額が何故「中宮本」にあり、遷善館の正面玄関にあった同様立派な「遷善館」なる額が何故「榎善家」に現存するか、その経緯は全く不詳です。

   愛生会病院は昨年12月25日に renewal open 致しましたが、それを期に「彌堅」の額を私の子供の頃と同じ様に正面玄関近くに掲げました。すると外来の患者さんや当院の職員よりこの額に関し種々の質問を受けました。それに答える型で出来るだけ出典を明確にした上、エッセイ的に駄文を綴りました。

 
 遷善館の設立時に尽力した名代官 早川正紀や、遷善館の筆頭教授の亀田鵬斉に関しては前記「市史」と「ゼミナール」に詳述されております。尚、両誌とも県立久喜図書館で容易に閲覧可能です(残念な事に「貸し出し禁」ですが!)。

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