宮本家の沿革

「なかみやもと」と読みます。中町の宮本の意味です。
  一方、遠縁の上町の宮本家は「かみみやもと」家と称します。

菩提寺永安山甘棠院 中央 即右隣に位するのが初代墓石

 
初代 法名 曹源院禅渓周悦居士(1635年没)
重定と名乗る。
上州、桐生家城主 桐生讃岐守重久の4男 桐生重良が宮本伝内(=太田 新田由良に仕官)の家督を相続。
その次男重定、長じて久喜郷に来往し医業(眼科を主とす)を開き、秘伝を孫々に残す。
俗名宮本七左衛門と称し、医師となり、宮本周悦と称す。
承応2年5月22日没、享年64才。
 
2代 法名 法雲院一降周説居士(1685年没)
重宣と名乗る。初代に男子2人あり、
       重礼(=幼名弥太夫   後に周悦 上宮本家→久喜眼科)及び
       重宣(=幼名七左衛門 後に周説 中宮本家→愛生会)と称す。
貞亭2年7月9日没、享年55才。

*14代が子供の頃、「幼名が初代と同じ、いや成人名が初代と同じ」とかで、上町にある宮本家
 と中 町にある当家の大人同士が「本家争い」をしてるのを記憶しています。
 
3代 法名 慈明院伝心周説居士(1709年没)
重伴と名乗る。俗名七郎兵衛 宝永6年1月6日死す。生年月日不明。
 
4代 法名 仙寿院白翁 周説居士(1729年没)
重清と名乗る。享保12年2月7日に死す。生年月日不明。

*12代著「七十七年の回顧 長寿談叢」によると3代と4代が逆に記されていますが、14代が時代
 考証した処、誤記と思われ、ここでは逆に記しました。
 
5代 法名 正覚院道本周説居士(1760年没)
重億と名乗る、幼名幸助。元禄14年生まれ、
宝暦10年7月10日没、享年60 才。
慈悲深く徳少なからず、患者数増加し、「中興の祖」と云われます。
 
6代 法名 杏林院杏嶽周説居士(1793年没)
重明と名乗る。享保10年生まれ、寛政5年5月23日没、享年69才。
5代3女の婿養子。宮内村浜田家(俗に、くない、くりだや と称す)の息子にして、幼少より医道に志し、元文4年(=1739年)15才の時、江戸酒井頭藩中坂井宅にて医業を学び、延亭元年(=1744年)上京(=京都)し、中山元亭法師に従い医業の奥義を極め開業し、名声四方に伝わる。
寛政年間、宇都宮城主戸田因幡守の眼科侍医となり、年々歳礼に罷出す。
寛政4年(1792年)城主忠寛公より御画及び御讃共御席書を拝領する、今尚我家に保存しあり(親父に話に聞いた事あるも14代は見た事ない)。
6代の息子、周達(幼名吉三)は江戸神田鍛冶町に、周祐は浅草駒形町に分家開業する。
6代はこれ等を出張所とし、時々出向き診療を行う(JRもない時代に大変な事です、14代記)。
周祐は水戸公の眼科侍医となり、時々往診し扶持を賜る。
6代は度々房州にも出張診療をしたと伝えられ、甚だ活動力に富み、中興の祖の1人なり。
 
桐生神霊社

   今尚、愛生会病院の中庭に存在する「桐生神霊社」は、6代が鷲宮神社神官を招き、初代と5代を神様と祭った神霊社であり、後に7代により6代も 同席とされた。

 

  *規模は別として、徳川家康が東照宮として神様
   に祭られているし、明治時代にも「東郷神社」と
  か「乃木神社」が新生されている様です。

 
7代 法名 柏樹院節山周説居士(1806年没)
重峰と名乗る。幼名吉蔵。寛延2年(1749年)生まれ、文化3 年11月9日没、享年58才。
5代の10男。
家富み栄え万事心の儘に行動すると伝わる。
想像するに5代・6代の遺徳の累積の累積によると思われる。
 
8代 法名 芳春院儀道周説居士(1826年没)
天明4年(1784年)生まれ 、文政9年3月5日没、享年43才。
前記6代の子周祐の子にして、幼名辰吉と云う。幼くして両親に別れ 、前記6代の子周達に養育され、長じて本家の8代を継承。
 
9代 法名 和楽院賢道周説居士(1845年没)
北埼玉郡忍町(現在の行田市)字行田の名門医家、三浦忠軒の子、8代の婿養子となる。
弘化2年6月4日死亡。生年月日不明。

*三浦家の末裔に三浦袋栄 慶応大学精神科教授(1995年没)がおり、14代は学生時代に偶然に
 も師事する。
 
10代 法名 徳源院真翁周説居士(1876年没)
周温と名乗る。明治9年1月2日没、享年55才。
子供無く、弟が相続する。
 
11代

法名 光源院覚心周説居士(1898年没)

周郁と名乗る。明治31年10月20日没、享年65才。
新時代に入った中宮本の繁栄の基礎的柱石をなせる英達の人。
次代より西洋医学の時代に入り、後継者に苦労の後が想像されます。

(11代には男子の実子もいます)

 
12代

法名 知性院静翁周説居士(1960年没)

倍五郎と名乗る。日光街道粕壁宿(=春日部市) の名主多田亀十郎の3男として、明治9年1月28日(=1876年)生まれ、11代に乞われ養子となる。

明治25年、第一高等学校医学部(=現在の千葉 大学医学部の前進)入学。
明治32年4月帰郷、「久喜眼科病院」開設。
大正04年 永らく当家のシンボルであった「西洋館」落成。
昭和35年11月25日没、享年84才。

尚、家伝の「くきのめぐすり」の製造・販売は、 第2次大戦中に知事の命により、県下の売薬製造販売会社が浦和に統合される迄続行されました。

3男勤が本家を継承し、4男進(1996年没)が伝来の家業「眼科医」を継承し、昭和23年加須市に分家。

 
13代

法名 正源院大方周説居士(1976年没)

13代周説勤と名乗る。大正2年10月20日生まれ。
昭和12年03月 日本医科大学卒、産婦人科専攻。
昭和14年11月 妻みつ(小児科専攻)と共に昭和14年11月帰郷し、
          「中宮本医院」と改名する。
昭和20年03月 前記12代4男帰郷。
昭和21年10月 「中宮本病院」の認可おりる。
昭和35年02月 西洋館の前に鉄筋の新館棟(第T期工事)落成し、同時に
           「愛生会病院」に改名。
                             昭和40年05月  東病棟(第V期工事)落成。
 昭和51年2月17日没、享年63才。

尚、13代には、女・男・男・女の2男2女あり、成人し、小児科医・婦人科医・内科医・皮膚科医と
なる。

 
14代 現存(=医療法人「愛生会」代表理事 & 「愛生会病院」病院長)
弘毅と名乗る。昭和16年8月28日生まれ。
昭和41年03月 慶応義塾大学医学部卒、産婦人科専攻。
昭和49年04月 妻馨(産婦人科専攻)と共に帰郷する。
昭和53年07月 愛生寮落成。
昭和59年12月 12代建築のシンボル的西洋館が白蟻の害にあい、同所跡に西病棟(第W期工事)
           落成
平成13年12月 病棟全面改築(第X期工事)落成
 
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