開業時の思い出

宮 本 勤

T.お産の往診

 開業したのは今から約30年前であったが、当時のお産は専ら産婆(今の助産婦)によって済まされていたので、難産となると産科医が往診することになる。新規開業医は不便な遠方の往診とか、夜間、雨天などの天候の悪い時が多いのはやむえない。当時の往診用乗り物は、この地方での先輩は人力車を利用していた。患者が重症の場合は急を要するので、車夫が二人で医者の人力車を引くのである。一人は正規の枠の中で走り、更に一人は綱で前の枠を結んで肩の上から引いて前向きに走る。所謂二人引きでスピードを出す。
 私は昭和6年荒川の下流小台の舟渡し場の自動車練習所で小型免許の修練をしていたから、トライアンプ1918型オートバイの中古車を購入して往診に使用した。水たまりを走ると車のエンジンがストップする。この様な時再発火しない場合はガソリンを吸い込み過ぎているので、プラーグをはずして火鉢で焼いてからエンジンを発火させる事もあった。
 また雪の日は視界が数メートルであり、近眼鏡に雪が積もって、道路と畑との境界が不明のため細い側溝にのめりこんだ事もあった。オートバイを乗り捨てて歩いて帰ろうとしても、真夜中だと雪の積もった野原の中では方向がわからず、狐につままれたおとぎ話の様にさまよってしまった。やがて夜が明け始めて汽車が汽笛をあげて走り出したので、線路づたいに家路についた。こんな辛い思い出もある。


U.患家での子癇処置

 子癇発作の連続で、更に病院への患者輸送の万策つきた場合があった。産婆には鉗子・鉗子とせがまれ、やむなく高位の鉗子を決意した。縁側まで産婦を引き出して、私は土間に降りて無理な鉗子を施行しました。案の定強度な膣壁会陰裂傷と更に恥骨結合開離が起きて半年も腰がたたず、加えて尿道口が横の方へ移動して排尿方向が横向きになった為、産褥の往診を長期間よぎなくさせられた。当時の苦しい思い出が眼前に彷彿とするが、親子共に健康となり、既に孫までもうけて感謝されている幸運な症例もある。



V.脳水腫による子宮破裂

 分娩が遷延していると云う訴えで、8キロ先の農家に往診した処、妊娠中毒症で浮腫の甚だしい、過剰に肥胖した産婦が腹痛に苦しんでいた。子宮口は全開大であるが児頭は骨盤入口上であった。内診所見で大きな泉門を触診した、一応高位の鉗子を試みたが、鉗子は滑って不思議である。その瞬間子宮破裂ではないかと思い、児心音を聴取するに不明、症状が揃って来たので入院手術する事にした。案の定、脳水腫による子宮破裂であった。発見が早かったのでポーロー手術で救命する事ができた。

W.空襲下の胎盤早期剥離

 戦争も苛烈となり毎夜の空襲警報下の灯火管制で、夜間の手術は極めて困難となった。当時は妊娠中毒症も多く、40才位の懇意な婦人が妊娠9ヶ月の胎盤早期剥離で運び込まれた。外に光りが漏れる事が許されないので、一坪位の押入に入れて、外子宮口を縦切開して、膀胱を押し上げ、内子宮口まで切開線を延長し、三指余に開大した。児頭を穿頭し、ゆっくり娩出したが、子宮頚管の癒着不全となった。終戦後に子宮全摘した症例もあった。



 

宮本勤著「去りし日の思い出」(昭和49年11月2日発行)より

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