私の信仰と信念

 

宮 本 周 説

 

 現在の宗教と結びつく神仏即ちイエスキリスト、釈迦、孔子の三者を聖人として又偉人として尊敬するものであるが、私は宗教的信仰は持っていない。只、亡き親及びその先祖を崇拝敬礼し、以前に自分の茶の間に位牌を安置した。仏壇に毎朝お茶を献じて合掌し、彼岸にはお寺参りをし、盆には「ほとけ」の迎え送りと盆の行事を怠った事はない(近頃は自分の歩行困難のために相続者がやっているが)。その先祖代々がお寺即ち寺院のお世話になっているから、自然仏教とのつながりが起こってくる。結果としてお寺の開祖や住職に謝意を表する事となる。しかし、私は寺の開祖や住職に自分の病気や何かについて願い事をした事がないから、信仰した事にはならない。即ち先祖崇拝主義者だが仏教信者と云う事にはならない。
 人類はたゆまざる進歩と発展をとげてゆく者である。これが人間の価値であり、進化の法則にかなうところである。神仏に帰依して、願い事をするのは人間の心の弱さである。依頼心を持てばその人の発展を阻害する事になる。人間は強い心を発揮しなければならない、結果として人間は道徳と秩序を重んじ、良心と理性に従い行動し、自分に与えられた職分を忠実に遂行するべく努力すべきである。但し自分一人では生きられず、社会人と共同に生きて行くのであるから、社会奉仕の信念は常に支持して行かねばならない。 

 イエスキリストの愛、釈迦の慈悲、孔子の仁、これ等は皆対人関係を説いたものとして了承出来るも、世界は個人の集合であるから、先ず個人の修養を第一の問題として取り上げねばならない。それには勤倹努力主義で行かなければならない。就中、倹の美徳を推奨せねばならない。勤倹によりて始めて貧を克服出来るのである。豊かでもない人が酒を常用するのは倹を守っていない。不運によりて起こる貧の生活は政府保障によるのであるが、その額は現在不十分で話にならぬ。殊に就職難を解消する様に政府は一段の努力を払わねばならぬ。
 近来青少年の犯罪が増加したのは誠に悲しむべき事である。第一番に家庭のしつけ(注意と監督)の欠陥と、小・中学の道徳教育の不十分、環境即ち政治の貧困を挙げねばならない。
 

宮本周説著「長寿談叢」(昭和35年4月1日発行)より

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